日本米の起源は、中国の福建米(ふっけんまい)であろうとされています。日本米を肥料をやらずに放っておくと、やや長く色が赤くなります。日本の原始米は、おそらく赤米だったと考えられます。赤長米(つまり福建米)が日本で栽培された時期は、約3,000年ほど昔の縄文(じょうもん)時代でした。少なくとも、今の福井県で栽培されていたことまではわかっています。
参考/(社)農協協会「JACOM」稲が日本に伝わった経路については、数多くの説があります。そのひとつが中国の江准(こうわい)地帯から朝鮮半島南部を経て伝わったとする説です。ほかに長江下流部から直接九州に伝わるか、朝鮮半島を経由して日本に伝わったとする説、中国南部からいったん沖縄に入り琉球列島を北上して南九州に伝わったとする説などがあります。いずれの経路にせよ、稲が大陸部から東シナ海を渡り日本にもたらされたことは、まず間違いありません。 参考/米穀機構「米ネット」
紀元後3世紀には卑弥呼(ひみこ)を女王とする倭国(わこく)、すなわち邪馬台国(やまたいこく)が誕生しています。このころ、稲作栽培の農業社会もほぼ完成されていたと考えられます。日本には、稲作農業が始まった古代から、米を中心とする社会ができました。米栽培の共同労働、農村共同体、水の管理から生まれた結(ゆい)という共同体などが、日本の社会の基礎ともなっています。米は日本人の心の支えとなり、さらに支配する力を持つものにもなっていきました。
また、米は他のどの栽培植物よりも高収量だったので、米を持つものは富(とみ)と権力をとても早く持てたのです。後には、米の大量生産により、社会的にますます持つ者と持たない者の差が開き、その間の戦いが起きていきました。米の争奮戦は、そのまま日本の歴史となり、農地(領土)のうばい合いを繰り返す時代が続いたのです。このように、米は生活と経済の基本でした。武士が天下を支配できたのは、武力と政策により米をつくる土地と耕作者を囲い込めたからです。しかし、江戸時代になると幕府米や藩米を大量に換金する必要性からこれらを扱う米商人があらわれ、米相場を決めて日本経済を支配したのです。以後、日本の文化は町人文化にうつっていきました。
結(ゆい):村内近隣で組をつくり、労働力を交換するならわし。また、その労働力となる人。参考/岩波書店「広辞苑 第七版」
奈良朝末から平安初期にかけて、盛んに東北征伐(せいばつ)が繰り返されました。朝廷の狙いは、稲に向かない寒い土地に稲栽培を広げ、年貢徴収の範囲を拡大し、その勢力をさらに強めることでした。稲を花が咲く時期やくきの長さなどで区別して品種にしたのは、ちょうどこのころからだといわれています。さらに、鎌倉時代から後になると、品種への関心が高まり、新しい品種が発見されたり、品種の分類が進んだといわれています。
参考/関東農政局HP北総中央農業水利事業所「農と歴史」、やまがたアグリネット「米づくりQ&A」江戸時代後期から稲の品種改良は限定的に行われていましたが、災害や害虫に対する知恵は不足しており、虫送りや鳥追い、風まつり、雨乞い(あまごい)という行事で無事を祈るしか方法はありませんでした。それゆえに、災害による凶作の年も多く、餓死者(がししゃ)もつぎつぎと出てきました。この時代、領主の悪政や過重な年貢もあり、農民たちの不満が高まり、百姓一揆(いっき)が起こるなど、社会的な不安もまねきました。
参考/岩波書店「広辞苑 第七版」口分田(くぶんでん)
大和朝廷は人々に一定の田を与え、もみ米で租を納めさせた。大宝律令(たいほうりつりょう)
土地はすべて国有として整理した。6歳以上の男子には2段(約2,400平方メートル)、女子にはその3分の2の田を与えた。開墾田(かいこんでん)の私有
開墾した個人が田を永久に所有した。この結果、土地の国有化が崩れて荘園(しょうえん)が広まっていく。太閤検地(たいこうけんち)
豊臣秀吉が全国の土地、収穫量、年貢量などを定めて記録(石高制)した。ますの統一
江戸幕府は、1升ますの容積を1.804リットルに統一した。新田(しんでん)の開発
江戸幕府や藩は開墾を進め、新田を増やして米の収穫量の増加をはかった。人ぷんや海産物の肥料が使われはじめた。地租改正(ちそかいせい)
明治政府は、税を米からお金に変えて、地租を地価の100分の3とした。米騒動(こめそうどう)
富山県で、米の値上がりに対しての暴動が起こり、後に全国に広がった。食糧管理法(しょくりょうかんりほう)
戦争のため食糧不足になり、米などを国家管理にした。農家は米を差し出し、人々は配給を受けた。食糧法(しょくりょうほう)
米が「自主流通米」中心の流れに変わった。新しい品質表示制度(ひんしつひょうじせいど)
消費者のために米の表示がわかりやすくなった。改正食糧法(かいせいしょくりょうほう)
米の流通がほぼ自由化。日本の稲作は紀元前3世紀に始まります。中国・揚子江(ようすこう)の流域で発達した技術が、農具とともに伝えられたのです。最初、農具は木でつくられたものでしたが、鍬(くわ)をはじめとして、たくさんの種類がすでにそろっていました。当時の水田はすべてが低湿地の沼田だったので、木製でも十分に役に立ったのです。
5~6世紀の頃になると、中国の華北(かほく)地方から朝鮮半島を通って、新しい稲作技術が伝えられました。これは、夏の間に水田をいったん乾かすという方法です。この方法では、鉄でできた農具が必要で、鉄製農具(すなわち土を切る部分に金属をかぶせた農具)も同時に伝えられました。そして、この新しい技術を取り入れ、勢力をつけていった部族が、古代国家を統一するようになっていったのでした。
また、華北地方の犂(すき=カラスキ、長床犂(ちょうしょうすき)も伝えられ、荘園(しょうえん)制の発達につれて、中世の時代に上層農民の広い土地で使用されました。
こうして古代の鍬の時代から、中世の犂の時代へと進むのです。
犂(すき)の時代から鍬(くわ)の時代へ
中世の時代が進み、肥料の使用が始まってくると、田を深く耕さねばならなくなり、長床犂(ちょうしょうすき)では役に立たなくなってきました。一方、鍬(くわ)ならまだ深く耕せたため、鍬を使っていた下層農民の生産力の方が高くなっていったのです。上層農民は生産力が止まり、勢力もおとろえていきました。
こうして、日本の農業は再び鍬の時代を迎えました。また、300年も続いた鎖国は日本独自の農業を生み出しましたが、農具もそのひとつです。さまざまな農具がこの時期、稲作以外にも発明されていったのです。幕末になると、先進地では、鍬農耕(くわのうこう)としては最高のレベルに達しましたが、全国的に広がっていったのは明治なかばを過ぎてからのことです。
また再び、犂(すき)の時代へ
農業技術は、明治になってさらに発展しました。農具では短床犂(たんしょうすき)という、新たな日本独自の犂(すき)の開発がありました。
明治になって、西洋文化が入り、西洋の事情が知られるようになると、犂耕(すきこう)が必要だと感じるようになったのです。しかし、西洋の犂は重すぎで、これまでの長床犂(ちょうしょうすき)では役に立たないので、この2つの犂の長所を取り入れた短床犂が開発されました。
短床犂が最終的な形になった昭和7年には、すでに耕運機(こううんき)の試作が始まっていました。やがて時代とともに機械化が進んで、農具は過去のものとなり、力の農業の時代は終わったのです。しかし、人間が農具と関わりあって、創意・工夫と汗で取り組んできた日本の風土は、いまに受けつがれているのです。
日本は戦前、戦時下はもちろん、戦後しばらく米不足が続いたので、この不足を小麦の大量輸入によっておぎなってきましたが、戦後の生産水準の向上によって米の生産が増やされ、いまでは逆に生産量が多くなりすぎて、米あまりが大きな問題になっています。米生産が大きく進歩した影には、カントリーエレベーター(貯蔵庫)があります。これは収穫機械の大普及で大量刈り入れができるようになったため、乾燥して保存しなければならなくなり、農民の出かせぎの時期を早めるために、政府の奨励策(しょうれいさく)によって建てられたものです。
現在、全国各地にカントリーエレベーターがあり、そこから玄米が消費地に輸送されています。将来的には、カントリーエレベーターと消費地の大精米工場とがつながり、もみから白米までのいっかん作業を行うことが理想とされています。
米の消費は、昭和37年の一人あたり118キログラムをピークに、毎年減少してきています。これは食料の種類が豊かになったことで、日本人の食生活が変化したことや年間約565万トン(平成30年)におよぶ小麦の輸入が行われていることなど、いろいろな原因があります。米の消費を上げるために、政府は米食を奨励(しょうれい)しています。なかでも、学校給食にご飯を取り入れたり、試験的に一部で米の無償交付(むしょうこうふ)などを行っています。
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00500100&tstat=000001018079&cycle=7&year=20180&month=0&tclass1=000001018080
お米が私たちの主食になったのは、第2次世界大戦以降で、歴史としては短いのです。それ以前は、麦・ひえ・あわなどの雑穀(ざっこく)に、お米2~3割を混ぜたご飯を食べていました。他には、そば・いも・とうもろこし・大根・豆類などが、主な食糧となっていたのです。
参考/吉川弘文館「お米と食の近代史」稲作は気候の影響を強く受けてしまうため、人々は神々(大自然)の力で稲がつくられると考えていました。さまざまなまつりは、稲の豊作を神々に祈願するために行われるようになったのです。
田植えまつり
各地の神社で田植えの始まる時期に行われます。旧暦では5月、現在では6月に催される豊かな収穫を祈るための神事です。また、各神社の春のおまつりも同じ目的を持つものが多いようです。今では、お釈迦様の誕生を祝うまつりだと思われている「花まつり」(4月8日)も、各地のならわしをみると、田植えが始まる前に、田の神を迎えるための行事であるものが多いのです。「田植えまつり」としては、「オミタ」(三重県志摩郡磯部町伊雑宮)、「御田植祭(おたうえまつり)」(千葉県佐原市香取神宮)、「御田植神事(おたうえしんじ)」(大阪府大阪市住吉区住吉大社)、「おんだ祭」(熊本県阿蘇郡阿蘇神社)などが有名です。
虫送り
稲が成長してくる夏に行われる虫送りや鳥追い、風まつり、雨乞い(あまごい)などの神事は、病害虫、鳥害、干害(ひでりのがい)などを防ぐため祈りのまつりです。各地の神社で行われる夏のおまつりは、このように意味や目的を持ったものが多いのです。また、「名越しの祓(はらえ)」や「禊(みそぎ)」は、いろいろな罪やけがれなどをはらい流すために、身を清める意味で身代わりの人形を川や海に流したりします。「弘前ねぷたまつり」(青森県弘前市)や「青森ねぶた祭」(青森県青森市)などは、農事の忙しくなる季節に睡魔(すいま)を流すための行事ですが、夏の「禊」と、考え方は似ています。
収穫のまつり
秋に行われる神への感謝のまつりであり、水田を守ってくれた神が、山へ戻るためのまつりでもあります。各地の神社で催されます。秋という日本語は、「飽食(飽き=秋)」という意味から出ているといわれるくらい、秋は実りの多い季節です。この季節に感謝の意味でもちをつくり、赤飯を炊き、酒をつくって祝うのです。
米にまつわる風習
米にまつわる風習はたいへんに多いといえます。たとえば「ふり米」は、人が死にそうになったとき、米つぶを竹の筒に入れて枕元でふり、その音を聞かせて元気をつけるというものです。
「力餅」というのは、米を食べることによって力がつくことから名づけられました。子供が生まれたときに炊く「産の飯」、または「産立飯」、百日目には「食い初め」、初誕生にはもちを搗(つ)き、赤子に踏ませたり、背負わせたりします。八十八歳を米寿(べいじゅ)と呼び、穀物をはかるときに使う、ますかきをおくる習慣もあります。死んだ直後には「一杯飯」、「枕飯」を炊きます。このように、日本人の一生は米と深い関わりを持っているのです。
稲は、米をつくるだけの植物ではなく、日本に豊かな文化を育ててきました。
わら製品
「わら」は、たたみの材料として有名です。ほかにも屋根材になったり(わらぶき屋根)、壁の材料として、壁土の中にも入れられます。わらを編んでつくる「ござ」、「円座(丸いざぶとん)」、「むしろ」などのしきもの。米を入れる「たわら」や、むしろでつくった袋の「かます」、ロープの「なわ」、はきものの「ぞうり・わらじ」など、日本人の生活用品としてさまざまに暮らしを支えてきました。
米の加工・醸造
もち米を搗(つ)いてできる「もち」。もち米と小豆(あずき)をいっしょに炊いた「赤飯」。お米からは「すし」や「おかゆ」。お菓子では、もち米からつくる「あられ・かきもち(おかき)」、うるち米からつくる「せんべい」。米を原料とした「清酒」など、米の加工品は数多くあります。
芸能
伝統芸能としていまに伝えられる能や狂言も、米づくりに由来しています。豊作を祈って歌ったり踊ったりした田楽(でんがく)が、歌や踊りに物まね、曲芸を組み合わせた猿楽(さるがく)と合わさり、能や狂言へと発展していきました。
数学
日本の数学は、農村数学が基礎になっています。たとえば、絶対水平面を必要とする水田をつくるための知恵、またその水を観察した知恵などから、日本人の理知的で科学的な発想が生まれてきていると考えられます。
文学
日本の文学の基礎となった和歌集、平安時代の「万葉集」のなかの「東歌(あずまうた)」は農村民謡です。当時、農村での労働者であった女性は、たいへん尊重されていました。また、日本各地の民謡では「田植歌」や「米つき唄」など、稲作や米にまつわる歌が、数多く歌われました。つらい稲作の労働をやわらげ、収穫をよろこぶ歌として歌われたのです。